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山の暮らしと自然にふれながら、アンナプルナの山懐へと歩く

山間の段々畑の写真

重い荷を担いだポーターにビスタリ、ビスタリと励まされる

 山の人のふだんの食事は、ヒエやソバなどの雑穀のディロ(湯で練ったもの)や、雑穀のパンケーキ風、小イモ、トウモロコシの飯などに、ダルや野菜のおかず、漬けものをつけ合わせる。極めてつましいものだ。カトマンドゥで主食の米は、山ではご馳走である。

 トレッカーは欧米人が中心なので、宿屋のメニューは西洋風だ。パン、スープ、卵、ヌードルと多彩だが肉はない。肉好きの彼らは、缶詰のコンビーフやソーセージを持参する。

 私たちがよく食べていたのはヌードル。つまり、インスタントラーメンである。フライドヌードルとはこれを炒めたものだ。野菜入りとなると、サークという野菜一辺倒。サーク以外の葉野菜はお目にかからなかった。

 ルート沿いの茶店や宿屋には、驚いたことにビールやコーラもあり、高地に行くほど値段は高くなる。ネパールではまだ缶入り飲料がないから、重たい瓶ごとポカラから人が担ぎ上げているのだ。

荷運びの女性の写真

 こういった食料品のほか、生活必需品、建築資材や燃料を運ぶポーターに毎日出逢う。ドッコという竹編の籠に荷を山積みにし、帯を額にかけて運ぶ。私など持ち上げることもできないくらいの重い荷を担ぎ、剛の者は60kgも背負えるという。

 動物性蛋白質や脂質の乏しい食生活で、よくもこれまでのエネルギーが出るものだと感心してしまう。ネパール人は日本人よりも小柄で細身なのに、竹のようにしなやかで強靭である。ポーターたちは休み場以外で足を止めることなく、粘り強く黙々と登り、下りは荷があっても風のように駆け下る。

 皆、足ごしらえはゴム草履か、よくて破れたズック靴なのにだ。夜は零下20度まで冷え込む4000mの高地へと、何日もかけてペタペタとたゆまず進む姿には言葉もない。

青空教室の写真

 山道といってもこの辺の街道筋だから、けっこう人に会い、道に迷うことはなかった。
「ナマステ(こんちは)!」
「ハーイ」「ハロー」
と声をかけ合い、狭い道を譲り合う。
「ナマステ、ディディ(お姉ちゃん)」
と呼ばれたら、すかさず
「ナマステ、ダイ(お兄ちゃん)」
と答えると笑顔がこぼれる。ゼーゼーいってへたばっていると、
「ビスタリ、ビスタリジャノス(ゆっくり、ゆっくり行きなさい)」
と、腰布の端で汗を拭いながら、ポーターのお母さん(女性もいるのだ)が言う。

 ヒマラヤの厳しい自然のなかで、ヒトという種同士が出逢うことの大切さを教わった。

谷底から仰ぎ見る月の出と朝の陽射しにきらめく谷

 谷あいは陽の射すのも、月の出るのも遅い。都会での生活は時計がすべてを仕切っていって、太陽も月も知らないうちに出たり、沈んだりしていた気がする。

 夕食後に食堂で雑談していると、客たちが急に外に出始めた。何かと思っていると、月の出を待つのであった。稜線の向こうがぼうと黄色くなり、尾根づたいの樹のシルエットが浮かび上がると、月が静かに顔をのぞかせる。立ち待ちの月、寝待ちの月という言葉があるのは知っていたが、実際に月を待ったのは初めてだった。

 3000m近くになると、朝の谷には霜がおリて、山小屋も森もうっすらと白く凍てつく。薄暗いうちに出発し、陽が射し始めるとあたりはキラキラと輝き出す。霜がとけ出すほんの数分間の光景だが、銀砂子を散らしたように、大地も草も石も光を放ってまたたき、息をのむほどに美しい。

山小屋の食事の写真

 5日目に森が終わり、緑のない河岸段丘状の谷筋を歩き、マチャプチャレのベースキャンプに着いた。さすがに3000m級の高地なので、とにかく息が切れ、体が鉛のように重く感じられた。空気が乾燥していて冷たいので、口で息をするとどうしても喉がやられる。山小屋の夜は、咳の合唱だ。翌朝起きてみると、寝袋の表面に薄く氷が張っていた。

 いよいよ6日目に目的地のアンナプルナベースキャンプ(4000m)に辿り着く、頭痛や嘔吐などの高山病の症状が出ている人もいるが、私たちは幸いにもそこまではならなかった。ここは内院、英語だとサンクチュアリと呼ばれる。トレッカーの終点であり、ピークを目指す登山家にとっては、アタックのスタート地点である。

 空は青く冴え渡り、峰から吹き昇る白い雪煙は、神聖なる山の霊気のようだ。7000万年前、アフリカから離れたインド亜大陸がユーラシア大陸にぶつかり、押し上げられた大地の皺がこのヒマラヤなのだ。

 風が吹くだけの静寂のなかで、突然深い地響きがとどろいた。峰の中腹からもうもうたる雪煙が、スローモーションのように舞い上がる。雪崩だ。畏怖の念を感じ、心が震えた。

ビジュリ、ジャパニがヒマラヤに灯をともした

 このルート最奥の村チョムロンに、一人の日本人が住んでいる。"ビジュリ、ジャパニ"(電気の日本人)と村人から慕われている、林克之氏だ。チョムロンで林氏と会い、話を聴く機会に恵まれた。

 林氏は1980年から夏は長野県でタクシー運転手をして働き、秋から春をこの村で暮らしている。ヒマラヤの森林保護のために、一個人のボランティアとして、水力発電でこの村に灯りをともした人である。氏の活動は、最近出版された著書『村に灯がついた』(山と渓谷社刊)に、詳しく語られているので、興味のある方は一読してほしい。

 氏の訥々とした口調と人柄は、ちっとも気負ったところがなくて、私たちは手作りの豆腐をご馳走になった。山の人の食生活を考えて試作してみた第一号の豆腐は、大豆を挽く石臼が新しいので、少しジャリジャリしていたけれど、良質の蛋白源になってくれるだろう。ボランティア精神の希薄な日本人にも、林氏のような人がいることに救いを感じ、ヒマラヤでもらった多くの感動を、私たちもいつか何らかの形でお礼をしたいと感じた。

 帰路は名残り惜しくて、タラタラと歩く途中で、たった1人でパーティーを仕立てている日本人トレッカーに会った。

 彼は山好きの会社員で、やっとのことに休暇をやり繰りして2週間のトレッキングに来たのだそうだ。時間の余裕がないので、旅行会社に手配を頼んだら、彼1人にガイド、ポーター、キッチンボーイが2人つき、総勢5人の大所帯になってしまったと嘆く。

大名行列トレッキングの写真

 が、しかし、彼の昼食の充実ぶりには目を見張る。ちゃんとクロスをかけたトレイにコンビーフポテト、野菜炒め、ラーメン、それにデザートまで並び、うやうやしくサービスされるのだ。もちろん、お茶も飲みきれないほどのヤカンで出てくる。

 彼が食事を済ませた後に、キッチンボーイは後片付けをし、ポーターは荷をまとめ、ドッコを担いで彼を追い抜いていく。そして、テントを張り、お茶を入れたところに、彼とガイドが到着するのだそうだ。うーん、これは大名行列のようではないか。

 アフリカでサファリツアーをした人の話に似ている。いささか植民地の旦那的クササがあるが、こういったトレッキングもまた一興だなと思った。そういうと、彼は
「いやあ、一人で歩いたほうがどんなに気楽か。人間社会から解放されたくて来たのに、もう気疲れしちゃって……」
とボヤく。なるほど、そういう苦労もあるのかと思いつつも、花柄の色鮮やかなクロスは、山のなかでピカピカに輝いて見えた。

(写真・文 野澤幸代)     

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